教室に入れなくなった子どもがいます。
理由は、きっと本人が一番知りたいのだと思います。
大人だって、なんだかもやもやする、という具合に、
案外自分自身のことを言語化するのは難しいものだと思っています。
その日、教室に入れなかった子どもが二人、私と一緒に別室にいました。
Aさんは前からの顔見知りでしたが、Bさんはその日が「初めまして」でした。
その部屋では、3人でほんわかと時が流れていっていました。
そこへ、AさんとBさんの担任の先生が様子を見に来てくださり、
「私もここにいようかと思いまして。」
とおっしゃってくださいました。
しかし、二人の様子は歓迎ムードではなく、それを察した担任の先生は、
「やっぱり、職員室にいますよ。なんかあったら言ってくださいね。」
と言葉を残し、ささっとその部屋をあとにされました。
私はBさんの思いが知りたく、
「ぶっちゃけ、先生いてほしかった?いないほうが良かった?」
と質問しました。Bさんは、
「どっちでもいい。」
と小声で答えました。
「どっちかって言うと?」
と質問しても答えは同じ。消え入るような小声で答えます。
「どっちかにしなくちゃいけないなら?」
とさらに攻めても答えは変わらず「どっちでもいい」。
すると、そのやりとりにAさんが入ってきて、
「私はやだ!」
と、はっきりと張りのある声で私に伝えてくれました。
「そうなんだね~。」
と、私は軽い感じで受容しました。すると、間髪入れず、
「わたしも・・・」
とBさんが小声で伝えてくれました。
もし、Bさん一人しかこの部屋にいなかったならば、
Bさんは「どっちでも」を繰り返したのだと思います。
Aさんが『自分を素直に表現しても大丈夫という環境』
を作ってくれたおかげで、Bさんは素直な気持ちが出せたのだと思います。
その状況が起きるのは、その人ひとりの固有のものではなく、
どんな環境にいるかで表現されることは変わってきます。
人は相互作用の中で、自分自身の表現を無意識に変えているのだと思います。
子どもたちのより良い成長を促す教育環境になるよう、
スクールソーシャルワーカーとして尽力していきたい気持ちを改めて思い起こさせてくれる出来事でした。