スクールソーシャルワーカーのひとりごと

守秘義務に配慮して綴っています

叱っているその行為、本当に子どものためですか?

 

 

先生の怒鳴り声

「なんでそんなところに水筒あるの?」

「○○さん、~してって先生言ったよね?」

「落ち着いてください!」

「○○さん!」

「授業受ける気がないなら出ていきなさい!」

これらは、先生が子どもに対し怒り口調、もしくは怒鳴り声で発している言葉です。

私はこういった場面に出くわすと、自分自身がとてもつらい気持ちになります。

ということは、怒鳴られた本人がつらいのはもちろんですが、周りの子ども達もつらい気持ちになっているのだと思います。

怒る代わりにできること

例えば、水筒を置く場所は決まっているからそこに置かないことは、学校内の集団生活においては良くないことかもしれません。

でも、怒鳴られなければならないことなのでしょうか。

人はだれしもうっかりすることがあります。

「うっかりすることもあるよね」とそのお子さんに寄り添った対応をしてもらえないのでしょうか。

~してっていう先生の言い分はわかります。

でも、それをやらないお子さんは、指示がわからないのかもしれないし、聞こえなかったかもしれません。

怒るということは、聞いていなかった、と決めつけてるのではないか、もしくは聞き漏らすことを許さないのか、そんな風に思います。

「やらないのはなんで?」と、子どもの言い分を聞いてもらえないのでしょうか?

落ち着いてくださいって、子どもは活発なのが子どもです。

時と場合によって落ち着かなければならないけれど、どういったときに落ち着くべきなのか、いつ元気に動くことができるのか、子どもに分かりやすく説明してはもらえないのでしょうか。

出ていけ、は論外だと思っています。

先生が子どもの学習の機会を奪う権利はありません。

先生は子どもへ学習の機会を提供する立場が本来です。

それなのに、「出ていけ」とは、開いた口が塞がらない、その先生に何か伝えても通じない気持ちにさえなります。

あたたかな声かけのある環境へ

私が「寒い」というと、「我慢しなよ。」と言ったお子さんがいます。

私は二つに意味で胸が痛みました。

一つは、我慢しろと言われて我慢はつらいな、という自分自身の痛み、

もう一つは、このお子さんはいつも我慢を強いられているのかもしれない、というそのお子さんの置かれた状況を思っての痛みです。

子どもたちは、日常置かれている環境の中で多くを学びます。

このお子さんはきっと、家庭や学校でいろいろ我慢している、もしくは我慢しなくてはいけないんだ、ということを10年ほどしか生きていない中で学んだのでしょう。

怒られてばかりの環境、我慢を強いられてばかりの環境で、子どもはその子らしく成長できるのでしょうか。

残念ながら、教育力のある家庭ばかりではないので、怒られてばかり、我慢を強いられてばかりとなってしまう家庭もあるでしょう。

でも、学校は子どもを健やかに育てるプロ集団のはずです。

厳しさの中にも、あたたかさのある学級、学校であってくれるとありがたいとスクールソーシャルワーカーの立場からは思います。

それが、辛い家庭環境のお子さんが自分らしく成長する一助になると思っています。