対人支援の専門職向けの市民講座に参加
私が住む自治体の広報で見つけた、すでに支援者として活動する人向けの講座を受講しました。
講師はNPO法人の理事の方2名と立教大学教授の湯澤直美さんでした。
教授に「さん」は失礼かと思うのですが、湯澤さんから講義の始めに「先生」とつけたら罰金1000円と言われましたので、ブログ上でも「さん」でご紹介させていただきました。
最初にこういったことをおっしゃって、ワンダウンポジションをとられたところがさすがだと思いました。
講義の内容の中で一番心に響いたのは、「助けて」が言える社会になってほしいという言葉です。
2009年に北九州市で餓死した男性のことを事例として挙げられていました。
また、ドラマ「リエゾン」で、ヤングケアラーの小学生が「大丈夫です。」を繰り返していたことを思い出しました。
さらに、以前受けた研修で、虐待など不適切な養育を受けた子どもは自分から「助けて」は言えないもの、といったことを聞いたことも思い出しました。
適切に頼ることも「自立」
私たち人間は、生まれたときは「助けて」の言葉の代わりに「泣く」ということをしまう。
その泣き声に対して「泣くな。」と言う反応を普通はしません。
それが、年齢が上がっていくと、いろいろなことを自分でやりなさい、に変わっていく、そんな中で「助けて」が言えなくなっていくように思うのです。
もちろんそれはお子さんの「自立」を促すために必要なことであることはわかります。ですが同時に「困ったとき、辛い時は助けてと言っていい」も教えてやってほしいと福祉的立場からは思うわけです。
「自立」は、一般的には一人でいろいろできるようになること、だと思います。
そこに、「適切に人に頼る」も入れてほしいと思うのです。
「助けて」を受け入れる社会に
私たち大人も実は適切に人に頼りながら生きています。
生きるためのすべてを自分で賄うことは無理で、食べるもの、着るもの、乗り物、いろいろ実は頼っているのです。
そこに気づけば、実は頼ることは当たり前で、私たち人間は支え合って生きていることに気づきます。
ただ、その度合いに個人差があると思うのです。
ある人が、そんなの一人でできるんじゃない?と思うことができない人もいます。
目に見えないハンディを持った方々です。
目に見えるハンディを持った方々はわかりやすいので支援を受けやすいです。
一方、目に見えないハンディを持った方々は支援以前に理解されない場合もあります。
ハンディは障害や病気だけでなく、予期しない出来事、例えば近しい人の死などもいつも通りの日常生活を送ることをうまくいかなくさせます。
そういった目に見えないハンディがあるかもしれない、だから配慮や支援が必要ということも理解し、「助けて」を受け入れる社会になってくれることを望みます。
そういった社会になることで、「助けて」が言える社会になっていくように思うのです。